石ころ部会の2月活動報告

月 日:R6年2月23日

場 所:富田林市錦織東および河内長野市汐ノ宮の石川河川敷                                                                                                                                                                                                                                                             

参加者:17人

活動内容:

 そぼ降る雨の中、17名が近鉄滝谷不動駅に集合。午前は近傍の石川河床での立ち木化石やアケボノゾウの足跡化石の観察である。先ずは川端の児童公園で化石発掘調査に関わられた森山先生から発見の経緯や調査の結果、現状などをお聞きする。そして河床の観察。雨に濡れた護岸は滑り易く、下りるに一苦労。何とか河川敷に辿り着き、水面をよく見ればメタセコイアの立ち木化石が其処かしこにある。発見当時の足跡化石の多くはその後の川の浸食により消失したそうであるが、緑色を帯びた粘土層には足跡らしい窪みもある。目を閉じればメタセコイアの森や湿地帯を歩くゾウの群れが見えてくるようだ。専門家の案内なしには味わえない経験である。

 午後は汐ノ宮の石川河川敷に向かい、汐ノ宮火山岩の観察である。雨は未だ止まず、火山岩の露頭には辿り着けなかったが、近距離から露頭を眺める。その火山岩はかんらん石や輝石を含む安山岩であるとの説明が佐藤先生からある。そして足元に点在する安山岩をハンマーで砕き、黒色の岩片に潜むかんらん石探しに興じる。宝石と言うには程遠いが、岩片にはオリーブ色の透明感のある粒子が点々とあった。

 最悪の天候ではあったが、森山先生と佐藤先生の丁寧な解説と指導のお陰で充実した観察会になった。天気の良い時に再度訪れたい処である。

学んだこと:

● 石川河床の立ち木化石や足跡化石は1984年に富田林高校理化部の生徒達により発見され、その後の発掘調査などによりその存在が学術的に証明された。

● アケボノゾウの足跡が見つかったのは大阪層群の中にあり、調査の結果、100万年前の粘土層の地層と判定された(市内ではキバや臼歯の化石も見つかっている)

● 当時は今ほど高くはない金剛山からの流水によりできた扇状地にメタセコイアなどの林が形成され、ゾウやシカが水を求めて歩き回る様がイメージされる。

● 汐ノ宮の火山岩(安山岩)はそれより遥か昔、1300~1400万年前に噴出した溶岩である。柱状節理が観察されるが、これは溶岩が固まる時に体積が収縮し、その時にできた五角形や六角形の柱状の割れ目である。

● 露頭の周囲にはヘリウムを含んだ炭酸ガスの湧出が見られ、泉源の成分は有馬温泉に近い。

● この安山岩はマグネシウムの多い高マグネシア安山岩であり、輝石とかんらん石を含むのが特徴で、非常に珍しいものであるが、近辺では嶽山山頂や寺ケ池周辺でも見られる。かんらん岩は地中深くのマントルを形成するものであるが、それが安山岩に含まれると言うことは安山岩が溶融した後に交じり合って上昇し、地表近くで固結したことを意味する。(I.S.)

 

石ころ部会の11月活動報告

月 日:R5年11月25日

場 所:柏原市 柏原市立歴史資料館・横穴公園及び大和川河原(国豊橋近傍)                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

参加者:21人

活動内容:

寒波襲来と思いきや、ぽかぽかの小春日和。今年最後の部会活動に21名がJR高井田駅に集合。午前は歴史資料館と高井田横穴公園の横穴古墳の見学、午後は大和川河原(国豊橋近傍)の石ころ観察である。歴史資料館で縄文・弥生の土器や石器、古墳時代の埴輪や装飾品、江戸時代の大和川の付け替え工事関連資料などの展示を見た後、学芸員の越智さんと横穴古墳の見学に公園内を歩く。古墳造営の文化的・時代的背景や大正期の横穴墓発見の経緯などの説明を耳に、200基以上ある日本最大級の横穴墓群の中の数か所に実際に入って見学し、遠い昔の古墳時代に思いを馳せた。

午後は地質学入門である。佐藤先生から横穴古墳の岩盤(凝灰岩)や公園入口近くの広場にある置き石(花崗岩)についての説明を受けた後、大和川にかかる国豊橋まで移動し、河原の石ころ観察を行った。朝とはうって変わり、河原は強風の荒れ模様ではあったが、思い思いの石を拾い集め、先生に鑑定をお願いした。

今日も多くを学んだが、ポイントを整理すると:

● 高井田古墳の岩盤は凝灰岩である。これは約1500万年前の大峰山・大台ケ原付近で起きた大規模なカルデラ噴火に由来するもので、室生火砕流堆積物と同じものである。当初はドンズルボーと同じように二上山の噴火に伴うものと思われていたが、岩質に違いがある。また、ドンズルボーの凝灰岩が幾層にも重なっているのに対し、高井田ではそのような層は見られない。即ち、1回の噴火で100mを超える堆積物ができたことを意味し、当時のカルデラ噴火の規模の大きさを物語っている。

● 公園入り口近くの広場に10数個ある大きな置石は古代の寺院(太平寺)の庭園の石を移設したものである。岩石の多くは花崗岩であるが、よく見ると縞状の模様の片麻岩に重なっているのが分かる。領家帯花崗岩と領家帯変成岩類が大阪平野の基盤岩であるが、地質年代的には約1億年前に変成岩(主に片麻岩)が高熱により形成された後、約8000万年前に花崗岩質のマグマが下から上昇・貫入したため両者が入り交ざった形になっている。花崗岩と片麻岩の両方がみられる理由である。

● 河原で集めた石ころは花崗岩、閃緑岩、斑レイ岩、流紋岩、安山岩(サヌカイト・サヌキトイドを含む)、砂岩、チャート、片麻岩、石英と鑑定され、5月に行った少し上流の亀の瀬での鑑定結果とほぼ同じであった。同じ大和川でも石ころの大きさや形は少し小さく、丸みを帯びているように思われた。今回は安山岩の他に片麻岩が多く採取されたが、縞状の模様やキラキラ輝いて見える粒子(黒雲母)が目を惹いたためか。(I.S.)

横穴古墳

大和川河原の石ころ観察

石ころ部会の10月活動報告

月 日:R5年10月27日

場 所:兵庫県川辺郡猪名川町 多田銀銅山遺跡                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

参加者:22人

活動内容:

 晴れやかな秋空の下、今日は多田銀銅山遺跡の見学である。22名が阪急電鉄川西能勢口駅前に集合。バスに揺られること30分、歩くこと20分で多田銅銀山悠久の館に到着。4人のボランティアガイドの出迎えを受け、4班に分かれて見学開始となる。見る物は多岐にわたるが、主なものは悠久の館の展示(銀銅山に関わる鉱石、道具、絵図、古文書など)、隣接の悠久広場(明治期の精錬所跡:レンガ構造物とレンガ敷遺構)、坑道(台所間歩、瓢箪間歩、青木間歩)など2000以上もの坑道があるそうだが、青木間歩では実際に坑道に入り、幾つもの鉱脈(石英脈)をくっきりと見ることができた。国史跡、町指定天然記念物の大露頭まで歩けば当時の鉱山の賑わいが窺える。鉱山の神様を祭る金山彦神社はスズメバチの巣が撤去されずに放置されているとかで参拝は取り止め。様々な遺構に目を奪われながらもよく歩いたものだ。万歩計は既に12000歩。そうこうする内に空模様も怪しくなり、家路を急ぐこととなったが、有意義な一日であった。

地質学の観点からポイントを整理すると:

 ● 多田銀銅山は二つの地質から構成されている。東側はジュラ紀以前に形成された超丹波帯と丹波帯の堆積岩類の地層が露出している。西側はその後の白亜紀後期に噴出した有馬層群の火山岩類(主には流紋岩質溶結性凝灰岩)がそれら堆積岩類を覆う形で分布している。

 ● 多田銀銅山は熱水鉱床に分類されるが、火山活動で熱水が岩の割れ目に入り、熱水に溶け込んだ銀や銅、鉛などの鉱物が石英成分とともに沈殿し隙間を埋めた鉱脈(石英脈)を有する。当地では主に班銅鉱、黄銅鉱に銀鉱物をともなう銀銅鉱が採掘された。何れも少量の銀が含まれるのが多田銀銅山の特徴のようだ。(I.S.)

多田銀銅山1

多田銀銅山2

 

 

 

石ころ部会の9月活動報告

月 日:R5年9月22日

場 所:和歌山県 橋本市 紀の川河原(南馬場緑地広場近傍)                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

参加者:20人

活動内容:

 昨夜来の豪雨も明け方には上がり、総勢20名が橋本市学文路駅前に集合。駅前の通りから紀ノ川沿いのサイクリングロードを歩くこと30分、緑地グラウンドの手前を折れて少し進めば紀の川の広大な河原と無数の石ころ群が現れる。多少の増水はあるものの、昨夜の豪雨を物ともせず紀の川は悠然と流れている。9月とはいえ、まだ夏の猛暑がこたえるが、気持ちが安らぐ。専門家の佐藤隆春先生より流域の地質について説明を受けた後、石ころ拾いが始まる。河原の石ころはこぶし大、またはそれ以上もあり、色彩豊富で美しい。図鑑を参考にするなどして思い思いに拾った石ころの分類を試みるが、見当のつかない石ころが多く、「不明」として山積みに置かれる。それらの多くは最終的に佐藤先生の鑑定で泥岩や砂岩とされた。泥岩や砂岩の鑑定は比較的に容易と思っていたのだが、意外や意外である。気に入った石ころをリュックに入れ、滴る汗を手で拭い、そこかしこに秋の気配を感じながら帰路についた。

観察のポイント:

  • 紀の川は源流のある大台ケ原を北上し、中央構造線の南側を西に向かって紀伊水道に流れる。流域の地層は海洋起源の四万十帯、秩父帯、三波川帯などの岩石からなっている。これらは付加体である。中央構造線の北側(大阪側)は領家帯花崗岩や和泉層群、泉南流紋岩などの地層からなる。また、周囲にはそれらより年代的に新しい(1500万年前の)火山岩の地層が散在している。今回の観察地点では想定通り、それらを起源とする多種多様な石ころが観察された。観察された石ころは以下の通り。
  • 変成岩としては緑色片岩、黒色片岩、砂質片岩などの結晶片岩が多かった。
  • 堆積岩としては泥岩、砂岩、石灰岩、チャートがみられた。泥岩や砂岩は通常我々が目にするものとは異なり、他の岩種と混ざり合った形状の複雑なものであった。このことから当地の堆積岩は四万十帯ではなく秩父帯の堆積岩(泥岩、砂岩)と推察される。和泉層群の泥岩、砂岩とも違うようであった。
  • 火成岩としては領家帯の深成岩(花崗岩、閃緑岩、斑レイ岩)の他、火山岩(流紋岩、安山岩、玄武岩)も見られた。これらの火山岩は1500万年前の火山活動によるものと思われた。他に、海洋起源の玄武岩とされる緑色岩も散見された。
  • 他に石英が多くみられたが、岩石の割れ目に入り込んだ石英質の脈が岩石の風化後に残ったものなのか。 (I.S.)

紀の川 河原の石ころ採集と鑑定風景

石ころの鑑定結果

石ころ部会の7月活動報告

月 日:R5年7月28日

場 所:河内長野市 滝畑ダム

参加者:28人

活動内容:

連日の猛暑にめげず、28名が滝畑ダムサイトに集合。目的は滝畑ダム管理事務所による見学ツアーである。先ずは管理事務所内でダムの概要説明を聞く。このダムは石川流域の治水、灌漑用水の確保、河内長野・富田林両市の上水道水源確保を目的に、9年の歳月をかけて1982年に完成。堤高62m、堤頂長120.5mは府下最大。

 次いで見学用ヘルメットを装着し、ダムの堤体上部に向かう。堤体の谷側にある急勾配の階段を監査廊出入口のある広場まで44m下りる。谷の東側にみえる摩崖仏を拝んで一息、堤体内部の監査廊に入る。内部の寒暖計を見れば17度、肌寒い。コンクリート壁全面には無数の水滴がみられ、天井には鍾乳石のつらら(コンクリートのセメントに含まれる石灰分が溶けてできた)が、床面には石筍が形成されている個所もある。廊内にはダムの傾きや、コンクリート壁からの漏水、ダムの基礎部からの湧水などの程度を測る様々な計器が配備されている。廊内の階段を上がると取水バルブ室、更に上がると満水時放流の為の放流ゲート室がある。階段はまだまだ続く。最後の力を振り絞って漸く監査廊の上部出入口に到達し、外に出る。そこから外階段を上がって堤体上部横にあるトンネル内に入る。トンネル内では僧房酒が、ダムの湖底では他の天野酒が熟成保存され、ふるさと納税の返礼品となるのだそうだ。体力勝負の見学ではあったが、管理事務所の説明や対応も行き届いており、貴重な学習の場となった。見学後はダム湖の管理道路を少し歩いて東屋のある休憩所で昼食をとる。市街地ほどでないにしても、谷の猛暑も耐え難く、周辺の地質観察は諦めて帰途に就いた。

 

石ころや地質に関わるポイント:

l 滝畑地区は領家帯花崗岩、泉南流紋岩類、和泉層群の泥岩、砂岩、礫岩などが分布しており、これらを横切って石川が南から北にV字谷をきざんで流れている。

l ダム付近の岩盤は半花崗岩(アプライト)である。滝谷周辺に広く分布している花崗岩とは少し異なり、黒雲母を含まない白色等粒状の岩石であるとのこと。

l 小生はダムの岩盤と夕月橋付近の露頭の2か所から岩片を採取し、持ち帰って比較してみた。前者は自宅の研磨機で汚れを落として観察すると石英と長石のみの等粒状結晶が殆どであり、黒雲母等の有色鉱物は全く見られないことから半花崗岩であることが確認できた。後者は黒雲母や角閃石を含んだ通常の花崗岩であった。(写真参照)

l 監査廊内の床面に形成された鍾乳石は高さ10㎝程度に育っていた。ダム構築40年後の成長の証である。因みに特別天然記念物である秋芳洞の石柱は10万年前~100万年前できた石灰岩の洞窟に地下水が浸透してできたもの。ダムの場合、コンクリート中のセメントが石灰分を含むために起こるものであるが、その形成スピードは天然の洞窟環境で作られるよりもずっと速いそうである。(I.S.)

石ころ部会の6月活動報告

月 日 : R5年6月23日

場 所 : 高槻市 摂津峡                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

参加者 : 17人

活動内容 :

 昨夜来の雨も早朝にあがり、梅雨の晴れ間のひと時、17名が摂津峡の自然史ハイキングを楽しんだ。石ころ部会としてはこれまで大阪平野の東側(生駒・金剛山地)や南側(和泉山脈)の地層を主に観察してきたが、北側の北摂山地は今回が初めてである。当地は丹波層群、大阪層群などの地層と火成岩(花崗岩、流紋岩など)の相互の関係が観察でき、それら岩体の新旧の関係や日本列島の形成史を学習するには格好の場所とされる。

 いざ出発。JR高槻駅からバスに乗り、上ノ口で下車すると目の前に小高い丘がある。ここは大阪層群の海成粘土層の観察ポイントであるが、アクセスに難があり、今回は観察を諦め、摂津峡に入る。今回も佐藤先生に観察地点の先々で解説をして頂いたが、どれだけ理解できたか、いささか心もとない。渓谷の絶景、谷川のせせらぎ、目の前を飛び交う蝶やとんぼ。頭の体操、目の保養、心の保養。摂津峡公園桜広場で解散。楽しい一日であった。                                                                                                                                   

 学んだこと

 摂津峡周辺の地層は丹波帯に属す。砂岩・泥岩、チャート、珪質泥岩、石灰岩、緑色岩などから成り、およそ8億年前~2.0億年前に形成された。当時はユーラシア大陸の東端にあったが、海洋底に堆積したチャートや石灰岩等が海洋プレートの移動によって大陸側の砂岩や泥岩に混ざったもの。(古い岩体の下に新しい岩体が潜り込んでいる:付加)

  • 摂津峡花崗岩と関係する火成岩(安山岩、流紋岩など)は約8000万年前に泥岩・砂岩に貫入したもので、摂津峡ではこれらの火成岩が貫入した際の熱で砂岩・泥岩がホルンフェルス化している。
  • 泥岩と花崗岩の接触部や泥岩に貫入した流紋岩の岩脈を佐藤先生は指し示されたが、苔の繁殖や地層の汚れの為か、判然としなかった。砂岩泥岩互層として白黒の縞模様やグレーディングが観察できる筈であるが、明確な確認はできなかった。地層を洗えばみえるのであろう。互層ができるのは1000年に1度程度の大地震により浅い海底の砂や泥が混濁流となった後、粗い砂から先に、その後、細かな泥が遅れて堆積するためである。
  • 芥川の河原(摂津峡大橋近く)のレキの観察で確認された岩石は砂岩、泥岩、チャート、石灰岩、花崗岩、流紋岩、緑色岩であった。泥岩や砂岩のホルンフェルスは確認できなかった。(河原ではなく、火成岩との接触部で見る必要がある)
  • 石灰岩の同定には塩酸溶液(トイレの洗剤など)が有効であることが実感できた。(I.S)

*各写真をクリックすると200%に拡大し、解像度も上がります。

摂津峡 地層と石ころの観察

日本列島 岩石の出来る場所(模式図) と 摂津峡で拾った石ころ

石ころ部会の5月活動報告

月 日 : R5年5月26日

場 所 : 大和川・亀の瀬付近の河原、亀の瀬地すべり資料室(大阪府柏原市)                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

参加者 : 25人

活動内容 :

梅雨入り間近ではあるが好天に恵まれ、25名が河内堅上駅に集合。亀の瀬方面に100mほど歩くと路の左側(北側)に急崖がある。佐藤先生の説明により花崗岩の露頭と分かる。先に進むと目の前に大和川、その対岸には明神山が見える。安山岩溶岩の噴出によるものであるが、美しい山である。更に進んで亀の瀬地区の河原におりる。そこは10~30㎝大の礫で埋め尽くされており、先月に行った石川の河原とは大分様相が違う。石の観察と鑑定にうんちくを傾けた後は佐藤先生の最終鑑定と説明に興味津々。納得するも直ぐに忘れてしまいそう。昼からは「亀の瀬地すべり資料室」に移動し、地すべりの学習である。よどみのない係員の説明(名調子)が耳に心地よい。亀の瀬は古来より大和と河内を結ぶ龍田古道の要衝(天然の関所)。北側の山は地すべりを起こしやすい地層(大地が最大で30mも移動した)。そのため大和川が氾濫、ひいては奈良盆地や大阪平野で浸水の被害を起こす。対策として、山の土塊の除去、杭打ち、地下水の抜き取りなどを行なっており、今では地区内の地すべりは殆どなくなっているそうである。資料館を出て、排水トンネル内部と近年発見された亀の瀬トンネル(明治25年完成)の遺構も見学した。地すべり対策事業の規模の大きさや明治期の鉄道トンネル施工技術に感銘を受けて亀の瀬を後にした。内容の濃い学習の一日であった。

学んだこと

ü  花崗岩は西日本の主な基盤岩(約8000万年前の岩盤)であり平地で露頭を見れるのは非常に珍しい(六甲、生駒、金剛の山々はそれが隆起したもの)

ü  大和川の南側の明神山は二上山とほぼ同時期(約1500万年前)の火山活動で安山岩溶岩を周囲に広範に噴出した。斑晶のない緻密なサヌキトイドも見られる。

ü  大和川の北方のトメショ山周辺も約1500万年前に噴出したドロコロ溶岩流によるドロコロ火山岩(安山岩)が分布している。

ü  地すべりの本体(土塊)はドロコロ溶岩であり、その下は花崗岩である。その境目にレキ層と粘土などの滑り易い地層がある。そのため、地下水などの影響を受け、上部の土塊がゆっくりと動き出して地すべりを起こすようだ。

ü  大和川河原で一番多く見られた石ころはサヌキトイドを含む多種多様な安山岩のレキであった。次に多かったのは花崗岩とチャートであった。

ü  先月観察した石川のように流紋岩や溶結凝灰岩は殆ど見られず、安山岩が圧倒的に多かった。花崗岩やチャート、片麻岩などは両河川に共通して多く見られた。(I.S.)

河内堅上駅から亀の瀬の大和川河原、地すべり対策施設等の見学

亀の瀬の岩石(資料館の展示標本と今回河原で採集した石ころ)

 

 

 

 

 

石ころ部会の4月活動報告

月 日 : R5年4月28日

場 所 : 石川 玉手橋下の河原(藤井寺市)                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

参加者 : 26人

活動内容 :

 4月から新たに15期生11名が加わり、石ころ部会も総勢47名の大所帯となった。この日は青空の下、26名が道明寺駅前に集合、玉手橋を渡り、河原に下りて石ころの観察を行った。今回も佐藤先生にご同行頂いた。拾った石は所定の場所に持ち寄り、めいめいが岩石鑑定検索表などを参考に分類した後で佐藤先生に最終鑑定をして頂いた。学習の傍ら、清流に列をなして泳ぐ鯉を眺める。心地よい春の刺激。平穏な一日であった。

鑑定作業のまとめ

    • 今回は最終的に14種類の石ころが集められた(写真参照)。
    • 量的に一番多かったのはチャート、花崗岩、礫岩であり、我々の鑑定の正解率は9割程度であった。
    • 次に多かったのが流紋岩、溶結凝灰岩、サヌキトイドであったが、これらの正解率は1割以下。門外漢にはこれら岩石の鑑定が非常に難しいことを示している。
    • 他に見られた石ころはサヌカイト、凝灰岩、泥岩、閃緑岩、結晶片岩、石灰岩、石英、片麻岩であるが量的には少なかった。泥岩や砂岩が意外に少なかったのは歳月の経過で摩耗、縮小、減少したためか。
    • 我々が安山岩としたものも最終的にサヌキトイドや流紋岩に分類された。サヌカイトは安山岩の一種である。通常の安山岩は斑晶が見られるが、サヌカイトは急冷下で固結したためそれが無く、ガラス質で緻密であるのが特徴。二上山周辺でも類似の岩石が見られるが、サヌカイトほど緻密ではなく、サヌキトイド(サヌカイト様岩石)と呼ばれる。
    • 安山岩と流紋岩の区分も難しい。違いは石英成分の含有量の違いにある(流紋岩は石英斑晶が多い)
    • 溶結凝灰岩が多いのも意外。凝灰岩が火山灰の堆積・固結したものであるのに対し、溶結凝灰岩は高熱の火砕流が固まったもの。軽石が押しつぶされてレンズ状の形状(黒曜石)を示す。
    • これらの石はどこから来たのか?: ガイド本には「石川最上流部の岩湧山やその周辺は和泉層群の砂岩・泥岩・礫岩と泉南流紋岩類とよばれる凝灰岩の仲間からなる。また二上山周辺は安山岩、流紋岩、凝灰岩などの火山岩類が分布する」とある。今回採集した流紋岩は泉南流紋岩であり、二上山やドンズルボーでみる流紋岩とは性質を異にするようだ。また、溶結性凝灰岩も二上山由来ではなく泉南流紋岩類由来のもののようだ。石灰岩は海洋のサンゴ由来、チャートは更に遠洋の放散虫由来。花崗岩や閃緑岩は金剛山や周辺地域の基盤岩である。(I.S.)

石川河原での石ころ拾いと鑑定風景

鑑定の結果

石ころ部会の3月活動報告

月 日 : R5年3月24日

場 所 : 大阪城                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

参加者 : 23人

活動内容 :

花曇りの空の下、大阪城公園大手前芝生広場に23名が集合。2班に分かれ、大阪観光ボランティアガイド協会のガイドさん(山崎氏、青山氏)の案内で「大阪城の石垣につけられた刻印を巡る」コースを歩く。 先ずは大手口の外堀にそびえ立つ石垣の観察から始まる。 現在の城構えは17世紀前半の徳川幕府の再建によるもので、石垣の構築は幕府の命により西日本各地の64の大名が分担して進められたようだ。その証として石垣には各大名の紋章を彫り込んだ「刻印石」が残っている。注視すれば遠くからでも鮮明に見える刻印もあれば、風化により見え難いものもある。石の切り出し、搬送、石垣の構築と種類、構築に関わった諸大名など、尽きることのないガイドさんの説明の名調子に時を忘れ、歴史のロマンに浸ることもできた。 七分咲きのソメイヨシノの花見も堪能でき、ラッキーで心地よい一日となった。 石ころ部会会員としては以下の点に興味をひかれた。

石ころ関連:まとめ

  • 大坂城の石垣に使われた石の総数は大小合わせて約100万個。そのうち6万個に刻印が確認されている。(全ての石に番号をふって綿密な調査が行われたとは驚きである)
  • 石材としては99%は花崗岩であり、一部には和泉砂岩が使われている。
  • これらの石は近隣の六甲山、瀬戸内の島々(主に小豆島)、遠くは九州の採石場から運ばれた。(写真参照:この地域は領家変性帯に属し、広域変成岩とともに花崗岩の地盤でできている。関西では六甲のみならず生駒、金剛の山々も領家変性帯に属し、花崗岩の山である)
  • 1メートル四方の石でも奥行があるため重量としては2.5トン、蛸石のような巨大(5mx10m以上)なものは100トンを超える。
  • このような石でも石切場が海に近ければ城までの殆どの道のりを船や筏で比較的容易に運ぶことができたようだ(写真参照)(I.S.)

    大坂城の石垣 刻印の観察

    花崗岩の分布と石材の搬送

石ころ部会の2月活動報告

月 日:R5年2月17日

場 所:大阪市立自然史博物館

参加者:18人

活動内容:

 コロナ禍も収束しつつある春先の陽光の下、長居公園を歩いて大阪市立自然史博物館で開催中の特別展「大阪アンダーグラウンド:掘って分かった大地の秘密」に向かう。 特別展の会場に入ると先ずは大阪平野の地層調査に使われたボーリングマシンが出迎える。 その後の展示内容は:地球の内部やプレートの模型、地殻を作る岩石、大阪周辺の山々の岩石、大阪平野で得たボーリングコア、地質断面図、剥ぎ取り標本、地下に生息する動物植物の生態標本、博物館の鉱物コレクションなどの数々。 調査・研究にあたった関係者の苦労が偲ばれる。ひと回りして「昔、大阪は海であった」ことを実感する。

 午後は希望者参加で、難波で開催中の「なんば石ころマーケット」の展示・販売会に向かう。会場は天然石やパワーストーンを求める女性客で熱気むんむん。小生はアメジスト(紫水晶)のクラスター原石(500円)を前に焦心苦慮。この石の石言葉は「誠実」、「心の平和」。酒の悪酔いにも効き目があるという。買った!! 石に願いをこめて。

特別展で学んだこと:

  • 大阪平野は北摂(砂岩、泥岩、チャート)、金剛・生駒(花崗岩、斑レイ岩)、和泉(砂岩、泥岩)の山地・山脈(大凡1~2億年前にできた種々の岩石)に囲われている。
  • 大阪平野は300万~30万年前にかけて砂、泥、礫などが堆積した若い地層(大阪層群)であり、岩石にはなっていない。
  •  陸にたまった地層と海にたまった地層が交互に幾重も重なっているが、これは気候変動に伴う海水面の上昇・下降により海になり陸になる変遷を繰り返したためである。
  •  大阪層群では20枚の海の地層と約50枚の火山灰の地層が確認されている。
  •  海の生き物(クジラ、貝類など)と陸の生き物(ナウマンゾウなど)の化石の出土からも各地層の当時の状況と年代が分かる。気候変動は温暖な場所を好む植物(タイワンスギなど)と寒冷な場所を好む植物(モミなど)の化石の出土からも分かる。(I.S.)

    大阪アンダーグラウンド

    なんば石ころマーケット

石ころ部会の11月活動報告

月 日 : R4年11月11日

場 所 : 大阪府和泉市 久保惣記念美術館

参加者 : 18人

活動内容 :

 今年最後の石ころ部会は久保惣記念美術館にて開催中の特別展「玉石の美」の鑑賞である。玉(ぎょく)は翡翠等の貴石でつくられた工芸品であり、中国では重要な美術工芸分野のひとつに位置付けされている。古くは中国新石器時代の玉菅、玉環、玉針や、商時代の工芸品(鳥、虎、魚、兎、龍、蝉や豚等の形をした彫り物)、清時代の硯や文房具等であった。日本古来の玉石としては縄文や古墳時代の耳飾り、弥生・古墳時代の勾玉や飾り玉などが展示されていた。勾玉は中国の展示品にはなく、日本特有のものであるようだ。玉石鑑賞の後は宮の上公園で昼食を摂り、いずみの国歴史館の展示も見学した。我々はこの7月に河内長野のふるさと歴史学習館で滑石を用いた勾玉づくりを行ったが(7月22日の活動報告参照)、今回の鑑賞で石に対する理解の幅が更に広がったように思えた。天気にも恵まれ、心地よく充実した一日であった。美術館の説明資料などを参考に石ころ部会の視点から今回の鑑賞・見学を以下のようにまとめてみた。

まとめ

  • 中国美術において「玉」(ぎょく)は軟玉、硬玉をはじめとする貴石で作られた工芸品の総称であり、祭祀器や装身具として利用された。他に碧玉、水晶、瑪瑙、大理石、滑石、蝋石、琥珀なども使用された。
  • 硬玉は翡翠(蛇紋岩由来の変成岩)のこと。軟玉は透閃石や陽起石の一種。碧玉は不透明な石英。水晶は無色透明な石英。瑪瑙は縞模様のある石英の結晶体。大理石は石灰岩が変成したもの。滑石や蝋石も変成岩の一種で特有の結晶構造のため結合力が弱い。琥珀は天然樹脂の化石。
  • 軟らかい順にモース硬度で列記すると滑石は1、琥珀は2~5、大理石は3、軟玉は6~6.5度、瑪瑙は6.5~7、硬玉(翡翠)は6.75~7、水晶は7、ダイヤモンドは10となる。

切断、穿孔、研磨等の玉器製作の工具として新石器時代には石製の工具が使用されたようだ。板状の石を使い、鋸を挽くように動かしながら水に濡らし砂を付けて擦り切る方法や、大きめの孔をあけるには、竹を用いて水に濡らした砂を付けながら回転させ擦り切る方法が推定される。商時代以降は金属製の工具が使用されたようだ。(I.S)

久保惣記念美術館前にて

中国 および 日本の 玉石 の数々

石ころ部会の10月活動報告

月 日 : R4年10月28日

場 所 : 大阪府泉南郡岬町 みさき公園周辺(長松自然海浜)

参加者 : 18人

活動内容 :

 快晴のハイキング日和、今回も先月の犬鳴山と同様、佐藤隆春先生にご同行頂き、和泉層群の地層と石ころの観察である。南海みさき公園駅から北に向かい10分で長松自然海浜に到着。先ずは磯に降りて石ころの観察である。次いで海浜道路を西方向に歩きながら、落石防止用に張られたネット越しではあるが、先生の案内で、切り立つた崖の地層を要所 要所で観察した。泥岩・砂岩の互層や地層の傾斜、構造などが何とか確認できた。観察のポイントを先生の解説や関連情報を参考に以下にまとめてみた。写真はいつものように佃さんのお世話になった。潮風が心地よく、実に楽しい自然史ハイキングであった。

観察のまとめ

  • 同定できた石ころは、砂岩、泥岩、礫岩、チャート、流紋岩、花崗岩の7種であった。量的には砂岩とチャートが多かった。
  • 和泉層群は中央構造線に沿って四国の松山から和泉山脈まで分布している。
  • 約7000万年前に礫岩、砂岩、泥岩が堆積したもので、厚さは最大7000mあるようだ。
  • 成り立ち: 深海において平時に土砂が堆積することはないが、それまでに浅海斜面にに堆積していた砂や泥が数十年~数百年に一度の大地震により混濁流となり深海に流れ込んだようだ。先に重い粒子から沈殿し砂岩に、遅れて軽い微粒子が沈み泥岩になる。
  • 今回、観察できたこと: ① 地層の勾配: 概ね東側に30°程度の傾きがあった。これはその地点から西側に進めば更に下の地層を見ることを意味する。地層全体が30°傾斜していると仮定すれば、西側に1㎞歩けば500m下の地層を見ることになる。

② 級化構造:1枚の地層でも粒子サイズに上下のグラデーションがあった。

③ ソールマーク: 砂岩の下層が露出した部分を見る(触る)と手の平大のふくらみがあった。海底で大きな石が流れ込んだ際、泥の層を転がった痕跡のように思われる。

④ 礫岩層内のチャート: 大峰山・大台ケ原方面のチャートや石ころが何等かの経緯で流れ込んだ可能性が大。理由は、大峰山は秩父帯(1.5億年前)のチャートの山であるが、組成などがよく似ていること、北摂の丹波帯のチャートを除けば和泉層群の周辺にチャートの地層がないこと等である(要検証)

  • 砂や泥の堆積物が何故、固い岩石になるのかの疑問に対して: 堆積後の経過年数(和泉層群は約7000万年、二上層群は約1500万年、大阪層群は未だ300万年)が関係するであろう。また、シリカ成分を含んだ地下水が岩石の割れ目から侵入し、砂や泥の粒子間に浸透した場合、それがセメントの役割をしていることもあろう。(I.S)

    長松自然海浜: 石ころの観察(7種の同定ができた)

    和泉層群の分布と地層の観察

石ころ部会の9月活動報告

月 日 : 9月30日

場 所 : 泉佐野市 犬鳴川渓谷

参加者 : 22人

活動内容 :

 季節は既に秋。快晴に恵まれ絶好のハイキング日和。JR日根野駅よりバスに乗り替え30分で犬鳴山バス停に到着。温泉街を通り抜け、参道を進めば渓谷の絶景が目に飛び込む。大きく斜めに傾いた巨大な地層の露頭に息を飲む。森の緑、川のせせらぎ、滝の音に気も和む。さすが「大阪府緑の百選」に選ばれたハイキングコースである。山道を歩くこと小一時間でゴールの「行者の滝」に到着。ひんやりとした滝のしぶきが心地よい。これより引き返し、地層について佐藤先生に簡単に説明をしていただく。地学への好奇心も刺激され、少し若返った気分。「足腰痛み除けの韋駄天」や「ボケよけ不動尊」などにしっかりと願をかけ、犬鳴山バス停に戻る。その後、温泉につかり命の洗濯も出来た。いつか、また来てみたいところである。

 佐藤先生の解説や地学関連の書を参考に観察のポイントを以下のようにまとめてみた。

  • 大阪の南に連なる和泉山脈(犬鳴山渓谷を含む)は主に和泉層群と呼ばれる地層で、約7000万年前に形成された。
  • 犬鳴山渓谷は海底に堆積した礫や砂や泥が長時間かけて固まって岩石になり、その後の地殻変動により隆起して山となり風化と浸食を受けて現在に至っている。その下には花崗岩の基盤がある。
  • 海底では数十年から数百年に一度の頻度で起きる混濁流の流れ込みにより泥岩や砂岩が互層となって新たな地層が生まれる。混濁流の原因は主には大地震であり、地層の枚数や厚さは地震の回数や強度を反映していると思われる。地層の厚さは最大7000mもあるという。
  • 当地の礫岩には砂岩,チャートの石ころが入っている.これらは現在の地質分布でみると南の大峰山や大台ケ原方面から流れてきたようである。(南側の地層は和泉層群より更に以前に形成されていた)
  • 当地の礫岩を観察すると砂岩や泥岩等の他にチャートが混じっている。チャートは放散虫のケイ酸質の殻が堆積して石となったもので、その殻の形状には年代毎の特徴があるので、顕微鏡で観察すれば礫に含まれる石ころの年代がわかる。(それが約1.5億年前なら大峯・大台ケ原の地層)  (文と写真 I.S)

    犬鳴山渓谷の散策

    泥岩・砂岩の互層 と 行者の滝 と チャート含有の礫岩

石ころ部会の7月活動報告

月 日 : 7月22日(金)

場 所 : 河内長野市 ふるさと歴史学習館

参加者 : 14人

活動内容 :

炎天下の野外活動を避け、屋内となったものの、活動自体は今回も石に拘った勾玉作りである。ふるさと歴史学習館が用意してくれた「勾玉づくりセット」には平面にカットされ穴のあいた滑石(蝋石)、サンドペーパー、耐水ペーパーと紐が入っている。これだけでも作成可能であるが作業効率化のため、他に金属製の平型と丸型のやすりも用意されていた。 指導員の指示に従い、四角の滑石を金属製のヤスリと紙のヤスリで勾玉の形に削り上げ、耐水ペーパーで磨いて穴に紐を通せば勾玉のペンダントの出来上がり。実に簡単である。出来栄えについてはそれぞれの想いもあろうが、1時間足らずで作ったにしてはなかなかのもの。これを縄文、弥生の時代に翡翠の原石から作れと言われたらどうしたものか。どんな道具を使って、どのように削り、どのように穴をあけたのだろうか。その労力は想像に難くない。

以下は勾玉や滑石について事後に得た知見である。

  • 勾玉は縄文の昔から日本で作られてきた。形の由来として、元は熊や狼の歯牙に穴をあけて装身具であったとか、胎内の胎児の形、太陽と月の組み合わせ等の所説がある。
  • 当初は滑石のような軟質石材が使用されたのだろうが、地域や時代の変遷により翡翠、碧玉、瑪瑙、ガラス、水晶など様々な材質が使われるようになったようだ。特に、硬度の高い翡翠は整形が極めて難しいことから貴重な宝物であった。歴代天皇の三種の神器(鏡、劔、勾玉)のひとつでもある。
  • 今回使用した滑石は蛇紋岩などの地中の岩脈が酸性熱水変性を受けた変成岩であり、特有の結晶構造のため結合力が弱く、非常に軟質(モース硬度:1)である。主な産出地は中国、オーストラリア、イタリアである。
  • 宝石の硬度は柔らかい順に 滑石(モース硬度:1)< 瑪瑙(2)< 方解石(3)< 蛍石(4)< 黒曜石(5)< オパール(6)< 水晶(7)< 翡翠(8)< サファイア(9)< ダイヤモンド(10)である。
    • 因みに、我々が普段見かける石ころの硬度は 砂岩(2.5)< 大理石(3)< 安山岩(6)< 花崗岩、チャート(7)である。(砂岩なら何とかなるかも。。。)  ( I.S)                      

勾玉の作成風景

勾玉づくり 14人の会心作

石ころ部会の6月活動報告

月 日:6月24日

場 所:和歌山県橋本市 紀の川(橋本橋の近傍)

参加者:18人

活動内容:

 梅雨の真っ只中、晴れはしたものの記録的な猛暑。熱中症が気掛かりだが、橋本駅から紀の川の河原へと足を進めると、北の和泉山地、南の紀伊山脈の間を悠然と流れる紀の川と広大な河原の絶景に息を飲む。源流は奈良県の大台ケ原、奈良では吉野川、和歌山では紀の川と名を変え、紀伊水道にそそぐ大河である。地質学的観点から今回も佐藤隆春先生に紀の川や橋本市周辺の地層の解説をお願いした。当地は三波川変成帯や四万十帯など、多くの地層が入り組んでいることから、上流からの石のみならず近傍の石も入り交じり、その種類も多いだろうと推測される。ひとり2個以上の石ころを持ち寄ることとし、18名の参加者は時を忘れて河原をさまよった。ヨシキリのさえずりも耳に心地よかった。

 一か所に持ち寄られた大小様々な石ころの最終鑑定は佐藤先生にお願いした。まとめとして:

  • 合計16種類(以下に下線で示す)の石ころが確認された。
  • 一番多かったのは四万十帯・秩父帯のチャートであった。チャートはプランクトン(放散虫)の殻が海底で堆積したものであるが、同じ地質帯のものとして他に赤色泥岩緑色岩も観察された。(赤色泥岩と赤色のチャートは酷似しており、素人には判別困難)
  • 2番目に多かったのは三波川変成帯の結晶片岩であった。プレートの沈み込みに伴う高圧により既存の岩石が変成したものであるが、元の岩石や色あいの違いから様々な名称がある。今回は緑色片岩黒色片岩珪質片岩砂質片岩が確認された。
  • 他には和泉層群の砂岩礫岩;領家帯の花崗岩閃緑岩斑レイ岩;火山岩類として流紋岩(石英斑岩)玄武岩質安山岩も観察された。他に緑簾石石英もあった。20㎝大の岩石の小さな空洞を注意深くみると無数の小さな水晶(石英の結晶)があった。

 追記: 写真班の佃さんが撮った河原のヒバリが可愛らしかったのでアップロードしました(ヨシキリだと思ってシャッターを切ったが実際はヒバリだったそうです)。 当月当番の平谷さんから母岩の空洞に見える小粒の水晶群の拡大写真を頂きましたので、それもアップしました。宝石拾いも身近に感じるようになりました。暑くて楽しい一日でした。(I.S)

紀の川の河原で石ころ拾い

河原の石ころ鑑定

河原のヒバリ と 水晶

石ころ部会の5月活動報告

月 日 : 5月27日

場 所 : 奈良県生駒郡平群町 信貴山

参加者 : 17人

活動内容 : 前夜からの雨も早朝にはあがり、まずまずのハイキング日和。電車をいくつも乗り換えて信貴山口駅に、そこからケーブルカーとバスに乗り継いで朝護孫子寺の境内前に集まる。佐藤先生の信貴山の地形と岩石に関する簡単な説明を受けた後、境内に入り、張り子の虎や本堂を横目に赤い鳥居が立ち並ぶ長い階段を踏みしめて標高437mの信貴山山頂に到着。要所要所で佐藤先生の説明があり、地質や岩石の観察をした。今回見たものは様々な種類の安山岩(サヌキトイド、高マグネシウム安山岩、黒雲母安山岩)、黒雲母流紋岩(ザクロ石が入っているか)、安山岩の貫入の痕、流紋岩と花崗岩の境界など山盛り。野鳥のさえずりや道すがら目にした密やかに咲くキンランに癒されて心地よい思いで帰路に就いた。また訪れたいところである。

学んだこと:

  1. 生駒・金剛山地は花こう岩などの深成岩の岩盤が隆起してできた山である。
  2. 生駒山地の西側(大阪側)には南北に走る生駒断層帯があり、活動は今も続いている。
  3. 現在の生駒山地の標高は400m前後であるが、大阪平野の基盤とは2,000~3,000mの高低差がある。遠い昔の一時期、ここはアルプスの山々のようであったらしい。
  4. 西南日本は高熱のフィリピン海プレートの沈み込みにより地底の浅い所にマグマが形成され、それが随所で噴出して火山となった。信貴山もそのひとつである。
  5. 信貴山周辺には流紋岩、安山岩をはじめ多種多様な火山岩が分布しているが、そのマグマが基盤の花崗岩を貫いて噴出して固結したものである。その時のマグマの深さなどにより鉱物組成が微妙に変化するため、今回観察したような様々な岩石になった。(I.S)

    信貴山山頂へ

    山頂周辺の岩石

石ころ部会の4月活動報告

月 日 : 4月22日

場 所 : 大阪市立自然史博物館

参加者 : 22人

活動内容 : 新年度の初回活動は自然史博物館 館長の川端清二先生による石ころや地質関連の座学と実習。初級編とは言え難解な部分も多かったが、ポイントの幾つかを整理してみると:

(1)石ころ・岩石の特徴と分類: 地球の表層には様々な種類の岩石があるが、成因別に火成岩(火山岩、深成岩)、堆積岩(砕屑岩、生物岩、化学岩)、変成岩(広域、接触変成岩)の3つに大別される。

(2)西日本・大阪周辺の地質: 大阪平野は北側を北摂山地、東側を生駒・金剛山地、南側を和泉山脈に囲まれている。北摂山地は海底にできた堆積岩(泥岩、砂岩、チャートなど)、生駒・金剛山地は地下でマグマがゆっくりと冷えて固まった深成岩(主には花崗岩)、和泉山脈は海底にできた堆積岩(泥岩、砂岩、礫岩など)の地層が隆起して山々になったもの。反対に大阪湾側は沈みこんだ後に、新たに積もった地層に覆われて今日の大阪平野をなしている。河原の石ころはこれら山々の地層や岩石の反映である。

(3)文化地質学の応用: 大阪城の石垣は巨大な加工石の多用やその工法に目を見張るものがあるが、石材は主に瀬戸内の小豆島や六甲山系で採石された花崗岩である。近年、大阪城の地下数mに豊臣期の大阪城の石垣が埋もれていることが発見され、地質学的に詳細な調査を行われた。石材は、北摂のチャートや笠木や信貴山の岩石を含むなど種類や産地も多岐に渡り、徳川期の石垣とは大きく異なるが分かった。歴史学や考古学とは違う文化地質学の意義がここにある。

午後の実習では淀川水系の木津川、芥川、猪名川や、大和川水系や紀の川水系の河川で採取された石ころ標本の鑑定を試みた。石に含まれている粒の特徴を肉眼やルーペで観察し、検索表に従って判定を行うのであるが、難しい。鑑定には慣れが必要であり、最終的には偏光顕微鏡による確認となるようだが、高望みしても始まらない。石ころの種類が川ごとに違うことは何となく分かった。少しずつ覚えればよい。石の楽しみ方は他にもいろいろあるのだから。(S.I)

座学

実習

石ころ部会の3月活動報告

月 日 : 3月25日

場 所 : 近つ飛鳥博物館と風土記の丘(南河内郡河南町)

参加者 : 23人

活動内容 : 前回11月の飛鳥の石造物巡りに続き、今回は大阪・羽曳野飛鳥での古墳群や石造物の観察である。古事記には大阪・難波宮からみて二上山の手前の近い方を「近つ飛鳥」、後ろの遠い方を「遠つ飛鳥」と呼んだとの記録があるようである。周辺には飛鳥時代の大古墳(敏達・用明・聖徳太子・推古・孝徳の陵墓など)が集まっていることから、王陵の谷とも呼ばれていたようであるが、「石」に関連する文化が栄えた場所であり、石ころ部会の活動の恰好な対象である。

近つ飛鳥博物館の屋上は階段状の石葺きの広場となっており、設計者安藤忠雄氏の「石」への強い拘りが感じられる。館内は王者の石棺や埴輪など、古墳に関わる様々な展示があり、隣接する風土記の丘は周囲に点在する102基の古墳が保存され、40基が見学できるよう史跡公園として整備されている。館内の展示や風土記の丘の古墳群を見学したが、石ころ部会の会員としては以下の事項に興味をもった。

  • 規模の大小はあるが、竪穴式石室や横穴式石室を形成する大掛かりな石組み
  • 石室内に収められた石棺(多くは凝灰岩や花崗岩でできている)
  • 仁徳天皇陵のような巨大古墳の規模の大きさと造営に要する期間と労力
  • 巨石の運搬用に使われた巨大な木製の修羅(巨石を何処から何処まで運んだのか)
  • 巨大墳墓全体は葺石で覆われ、周囲は垣根のように埴輪が並べられ、造営当時は今に見る緑の森ではなく、ピラミッドのように光り輝き偉容を誇っていた。
  • ここの古墳(一須賀古墳群)は殆どが小規模な円墳であり世界遺産として登録されたものはないが、その数の多さに驚く。正に墓場である
  • 鹿谷寺石塔の展示(十三重塔の実物大模型): 奈良時代の前半に凝灰岩の岩盤から切り出したようであるが、その大きさに目を見張る。

本年度最後の部会となったが、陽光の下での風土記の丘の散策はコロナ禍を忘れさせ、心地よい解放感をもたらしてくれた。このままコロナを死の谷に葬りたいが、また訪れたい所である。(I.S)

近つ飛鳥博物館

風土記の丘

石ころ部会の12月活動報告(フォローアップ報告)

12月活動報告(フォローアップ報告)

月 日: 令和2年11月27日(金): この時の活動のフォローアップ

行 先: 石川 河原(河内長野駅付近): 

内 容: フォローアップ報告

当月の部会は休会であるが、昨年の11月27日の部会で行った河内長野駅近傍の石川河床の露頭の観察が大阪市立自然史博物館発行のNature Study誌12月号(2021年12月10日発行)の報告に結びつきましたので報告します。

会員のひとりが露頭表面に暗緑色で棒状の塊(約1x5㎝大)があることに気づき、皆で周囲を更に観察すると類似の緑色の物体が数か所で見つかった。佐藤先生はこの知見についてNature Study誌への寄稿を提案された。後日、一部有志が佐藤先生と分布状況など、更なる確認作業を行った。先生は文献調査の他、持ち帰った資料の顕微鏡学的検討を行った上で報告書(以下の内容を含む)を作成し寄稿された。

  •  露頭の岩体自体は約1億年前にできた領家体の花崗閃緑岩である。
  •   問題の緑色の岩体はいずれも長軸が一定方向を向いており、溶岩ではなく凝灰岩由来のものと推定される。
  • それが、いつ、どのように花崗閃緑岩に貫入または包有されたのかについて、いくつかの仮設が考えられるが、今後の課題である。

地学に全くの素人の身には少々難し過ぎましたが、今回の経験を通して少しだけアカデミックでブラタモリ的な世界を味わうことが出来ました。今後の活動でも似たような体験を期待したいと思います。(I.S.)

石ころ部会の11月活動報告

月 日:11月26日

場 所:明日香村(奈良県)

参加者:20人

活動内容:

 今年最後の部会は晩秋の陽光の下、明日香の石造物巡りを楽しんだ。飛鳥駅に集合した後、ガイドさん(2人)の説明を耳に、猿石、鬼の雪隠・俎板、亀石、橘寺の二面石などを見てまわり、石舞台広場で昼食。コロナ禍も大分おさまってきたためか、修学旅行生で賑わう石舞台を後に、飛鳥宮の旧跡や亀形石造物を通過して酒船石へ。ここは酒造りとは関係なく、宮廷の儀式の場であったようだ。何の目的で作られたのか謎とロマンの世界であるが、石ころ部会としては石材の材質と産地は是非ともおさえておきたいところ。事前に調べて頂いたガイドさんの説明によれば、石舞台や亀石などの石材は飛鳥石と称される石英閃緑岩(花崗岩)であり、地元産。酒船石は天理砂岩と称される凝灰岩質砂岩で天理から運ばれたものだそうだ。明日香では他に二上山・ドンズルボーの凝灰岩や、更に遠方の石材も古墳や建築物の敷石、寺の礎石や道標などに数多く使われているそうである。明日香は水と石の都と言われる所以である。

 石造物巡りの後は飛鳥寺境内を通過して甘樫丘に。展望台では明日香の眺望絶佳に息を呑む。丘の東側には飛鳥宮を取り囲む神社・寺院建築物が、北側には藤原宮とそれを囲む大和三山(畝傍、耳成、天香具山)が、そして畝傍山の奥には二上山の稜線がくっきりとみえる。飛鳥・藤原京のいにしえ人は雌岳と雄岳のちょうど間に夕日が沈む神聖な光景から二上山の向こう側に死後の世界をみたようだ。聖徳太子、推古天皇など多くの名のある都人が山の向こう(今の太子町)に埋葬された所以なのだとか。感慨に浸りつつ豊浦、橿原神宮前経由で帰路につく。さらば、石の都 !!  よく歩いた。万歩計は20,000歩を刻んでいた。(I.S)

石造物

甘樫丘

石ころ部会の10月活動報告

月 日 : 10月15日

場 所 : ドンズルボー(奈良県香芝市)

参加者 : 16人

活動内容 :

 抜けるような青空の下、地質学の佐藤隆春先生にボランティアとしての同行と解説をお願いしてドンズルボーの観察を行った。

 ドンズルボーは1500万年前に二上山(雌岳)の噴火により、火砕流や火山灰などが堆積し、その後の隆起と浸食を経て形成されたものである。岩相や堆積構造を露頭で容易に観察することができ、奈良県の天然記念物に指定されている。白い地層は流紋岩質の凝灰岩や礫であるが、今回は凝灰岩層に残る火山豆石や、雌岳から堆積層上に飛来した火山弾(流紋岩)の衝突痕などを観察しながら、山あり谷ありの露頭を南から北に向かい防空壕まで歩いた。踏み外せば谷に落ちそうな個所もあり怖くなるが、シニアの講座で佐藤先生と同じ道を歩いた昔が懐かしく思い出される。あれから何年経ったのか、足腰の衰えは如何ともし難い。足元に散らばっている小石や礫は殆どが灰色や黒色(ガラス質)の流紋岩であるが、安山岩も僅かながら混じっていた。

 防空壕は太平洋戦争末期に当時の陸軍が最後の抵抗の拠点としてドンズルボーの一部を網目状に掘削(総延長2㎞)したもので、予定した航空指令部などの施設は未完に終わり、洞窟だけが戦争遺跡として残っている。内部は真っ暗闇である。懐中電灯の助けとネットで得た洞窟内の地図を頼りに火砕流や火山灰の堆積層配列や、安山岩や流紋岩の大きな岩片の混在などを確認した。ドンズルボーの地層についての学術報告は数多くあるが、洞窟内の堆積構造についての報告は未だなく、手つかずの状態であるので、詳細な観察とこれまでの知見との関連付けができれば価値ある研究になるそうである。入口付近では小さな昆虫類もみられた。暗闇の天井のそこかしこに宙吊りで眠っている蝙蝠が目を覚まし飛び交うさまに驚かされ、探検気分は十分に味わった。帰りは往路で体験した凝灰岩の岩山の“恐怖の彷徨”を避け、グーグルナビでも行ける西側の比較的平坦な山道を歩いて出発点に無事に戻った。(I.S)

ドンズルボー

防空壕

石ころ部会6月活動報告

石ころ部会6月活動報告

月 日:6月25日

場 所:滝畑 千石谷・大滝

参加者:14人

活動内容:

梅雨空の下、地質学の佐藤先生に同行をお願いし滝畑の地形・地質を観察しながらハイキングを楽しんだ。岩湧山の麓から和泉山脈にかけての山々は和泉層群の岩石で覆われている。大昔、この辺りは東西に細長く伸びた海であったそうだ。海底に堆積した泥や砂や礫が悠久の時間をかけて固まって泥岩や砂岩、礫岩となり、その後の地殻変動で地層が隆起して山となり、さらに風化・浸食を受けて現在の地形になっているとのこと。

 今回は滝畑の岩湧山登山口から千石谷ルートを大滝まで歩いたが、山側に泥岩、砂岩、礫岩の露頭が多くあり、明瞭な互層構造が観察された。地層が大きく南側に傾いており、隆起時の地殻変動の激しさが伺える。佐藤先生によれば礫岩は別名、さざれ石であり人工物のコンクリートと見間違いやすいが、非常に強固であり、強固なるが故に滝の河床は礫岩であることが多いとのこと。程なく大滝にたどり着き、落差15mの雄姿に圧倒される。滝壺には近づけなかったが、近くには巨大なさざれ石がいくつか見られ、苔むしたその姿は実に美しく悠久の時を感じる。「君が代はさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(古今和歌集より)。(現代語訳: 君が代は千年も8千年も永遠といえる時間、小さな石が大きな岩となって、その岩に苔が生えるまで長く長く続きますように)感慨深い面持ちで帰路を急いだ。バスに乗ると突然の大雨。濡れないですみ、ラッキー。滝畑まで自宅から自転車で来られた佐藤先生は辛抱強く雨宿りをし、濡れることなく無事帰宅されたそうである。

石ころ部会3月活動報告

月 日:3月26日

場 所:岸和田(自然資料館、岸和田城など)

参加者:20人

活動内容:

のどかな春の一日、午前はきしわだ自然資料館にて館内展示物の鑑賞・観察を行った。ここには見た者の目を惹く動物の剥製やナウマンゾウの骨格標本などの他に、岸和田の自然、地層、化石など、自然史関連の様々な展示がある。今回は地味な内容となるが、石ころ部会として地質学の専門家である濱塚アドバイザーより泉州地域の地層、岩石などについて学ぶ機会を得た。

 岸和田の海岸から和泉葛城山にかけて(1)大阪層群、(2)領家体花崗岩類、(3)泉南流紋岩類、(4)和泉層群の露頭(地質断面図など:写真参照)が見られるが、年代的には300万年前に形成された大阪層群が一番新しい。これらの地層が幾度も地殻変動を経て、また海面の上昇・下降に伴い、時に海底に、時に陸となりながら複雑な地層を現在に残している。 このため泉州地域では日本列島誕生の土台形成となる様々な石(火成岩、堆積岩、変成岩)が観察され、地質学的価値は府内随一だそうである。因みに日本の国石である糸魚川の翡翠に対し、各都道府県指定の石や鉱石もあり、大阪の府石は和泉石(和泉青石)と呼ばれる和泉層群の砂岩であるだそうである。大阪の鉱物は、これもアンモナイトと伴に和泉層群で見られるドーソン石だそうである(写真参照)。

 午後は陽光の下、七分咲きの桜を愛でながら、昔ながらの風情を残すかじやまち商店街や明智光秀の肖像画で名高い本徳寺周辺を散策し、丘陵や段丘で高低差のある街並みを確かめながら段丘最上部に築かれた岸和田城(千亀利城)まで歩いた。石垣や本丸は主に和泉石や花崗岩が使われており、石庭は多くの泉州青石(緑色片岩:変成岩)を各所の配置し、周囲を敷き詰めた白川砂(花崗岩が風化したもの)で構成されている。午後3時に散会したが石尽くしの一日であった。(I.S)

(1) 大阪の石

(2) 岸和田 地層図

 

石ころ部会の11月活動報告

月 日 : 11月27日(金)

行 先 : 石川 玉手橋下 河原(近鉄道明寺駅下車)

       石川 河原(河内長野駅付近) 

参加者 : 17名

 9月、10月は雨天中止で涙を飲んだが、今回は幸運にもポカポカの観察日和。 本年最初で最後の部会となることから、石ころについて多くを学ぶべく、地質学の佐藤隆春先生にボランティアとして同行をお願いした。場所は昨年5月と同様、道明寺駅近くの石川の河原。 先ずは思い思いの石ころを各自が採取し、岩石鑑定検索表や石ころ標本を参考にして皆で鑑定を試みた。 安山岩、サヌカイト、流紋岩、花崗岩、閃緑岩、凝灰岩、砂岩、泥岩、礫岩、石英、チャート、と11種類に何とか分類してみたものの、これが正しいのか間違っているのか全く自信がない。そこで佐藤先生の出番となるが、鑑定結果の正否や、それぞれの石の特徴を教えて頂いた。 正解率は7割程度で上出来というべきか。 他に、河原の石ころ分布についてより地質学的な観察方法も教えて頂いた。素人の石ころ鑑定は結論が出ないまま空しく終わってしまうのが常であるが、今日は何か満足感がある。

 昼からは場所を河内長野駅近くの石川に移動し、河床に露出する花崗岩と閃緑岩を観察した。 その過程で花崗岩や閃緑岩とは明らかに異質な暗緑色の岩片(5㎝大)の混入が数か所で観察された。 佐藤先生によれば玄武岩のようであるが、もし顕微鏡でそれが確認されれば地質学的には非常に珍しく、意義のある発見であるとのこと。先生の検討結果を待って、石ころ部会から大阪市立自然史博物館に内容を報告することになった。

以上、今回は地質学の雰囲気の漂う活動となった。(I.S)

石ころ部会11月活動報告

1. 日 時   :11月29日(金)

2. 場 所   :二上山・岩屋(地層観察)

3. 参加人数  :13名

4. 活動内容  :二上山は約1500万年前に噴出した火山岩類でできており、様々な種類の火山岩や凝灰岩がみられる。今回は佐藤隆春先生に案内と解説をお願いして、当麻寺駅を出発、当麻寺、祐泉寺、岩屋峠周辺のルートを往復した。今年一番の寒さながらも快晴に恵まれ、紅葉で彩られた二上山の地質観察を十分に楽しむことが出来た。

当麻寺では日本最古(白鳳期)の石灯篭を観察、二上山の凝灰岩から作られたもので、石材の加工技術が発達していなかった時代には二上山の柔らかい凝灰岩が重宝されたようだ。法隆寺金堂の土台もその一例とのこと。

祐泉寺周辺では丸みをおびた軽石が入った凝灰岩の層を観察、火山灰が岩石になったもので比較的柔らかく、白っぽい。(約1ミリのザクロ石や黒雲母も入っているようだ)

先に進むと溶結凝灰岩の層がみられた。火砕流によってたまった火山灰がそれ自身の高熱により溶解してガラス質になり固まったもので、溶結の度合いが進むほど黒っぽくなるようだ。

岩屋峠から岩屋に降りると凝灰岩や溶結凝灰岩の層に深く入り込んだ凝灰角れき岩の層がみられた。溶結凝灰岩が再度の爆発により粉々になって固まったものだそうだ。岩屋峠から雌岳のふもとに進むと青灰色の安山岩(ザクロ石黒雲母安山岩)がみられた。噴出した溶岩が凝灰岩層の上に堆積したもので、その境界線をみることもできた。

これら4種類の岩石の層はそれぞれが別々に起きた火山爆発によりできたもので、このような地形は珍しく、二上山に特異的なもののようだ。今回、雄岳は登らなかったが、雄岳では更に別の火山岩がみられるという。今は火山ではないものの1500年前この地に起きた度重なる火山爆発が目に浮かぶようだ。専門家の説明がなければ単なるハイキングで終わってしまうであろう二上山登山も佐藤先生のお蔭で大変貴重なものになった。岩石や地形の細かな観察を通して何故そのような地形になったのか原因を推定・検証していく地質学者の地道な研究努力の一端を垣間見る思いがした。

反省会は河内長野の大喜多で、出席者は9人。