石ころ部会の11月活動報告

月 日:11月26日

場 所:明日香村(奈良県)

参加者:20人

活動内容:

 今年最後の部会は晩秋の陽光の下、明日香の石造物巡りを楽しんだ。飛鳥駅に集合した後、ガイドさん(2人)の説明を耳に、猿石、鬼の雪隠・俎板、亀石、橘寺の二面石などを見てまわり、石舞台広場で昼食。コロナ禍も大分おさまってきたためか、修学旅行生で賑わう石舞台を後に、飛鳥宮の旧跡や亀形石造物を通過して酒船石へ。ここは酒造りとは関係なく、宮廷の儀式の場であったようだ。何の目的で作られたのか謎とロマンの世界であるが、石ころ部会としては石材の材質と産地は是非ともおさえておきたいところ。事前に調べて頂いたガイドさんの説明によれば、石舞台や亀石などの石材は飛鳥石と称される石英閃緑岩(花崗岩)であり、地元産。酒船石は天理砂岩と称される凝灰岩質砂岩で天理から運ばれたものだそうだ。明日香では他に二上山・ドンズルボーの凝灰岩や、更に遠方の石材も古墳や建築物の敷石、寺の礎石や道標などに数多く使われているそうである。明日香は水と石の都と言われる所以である。

 石造物巡りの後は飛鳥寺境内を通過して甘樫丘に。展望台では明日香の眺望絶佳に息を呑む。丘の東側には飛鳥宮を取り囲む神社・寺院建築物が、北側には藤原宮とそれを囲む大和三山(畝傍、耳成、天香具山)が、そして畝傍山の奥には二上山の稜線がくっきりとみえる。飛鳥・藤原京のいにしえ人は雌岳と雄岳のちょうど間に夕日が沈む神聖な光景から二上山の向こう側に死後の世界をみたようだ。聖徳太子、推古天皇など多くの名のある都人が山の向こう(今の太子町)に埋葬された所以なのだとか。感慨に浸りつつ豊浦、橿原神宮前経由で帰路につく。さらば、石の都 !!  よく歩いた。万歩計は20,000歩を刻んでいた。(I.S)

石造物

甘樫丘

石ころ部会の10月活動報告

月 日 : 10月15日

場 所 : ドンズルボー(奈良県香芝市)

参加者 : 16人

活動内容 :

 抜けるような青空の下、地質学の佐藤隆春先生にボランティアとしての同行と解説をお願いしてドンズルボーの観察を行った。

 ドンズルボーは1500万年前に二上山(雌岳)の噴火により、火砕流や火山灰などが堆積し、その後の隆起と浸食を経て形成されたものである。岩相や堆積構造を露頭で容易に観察することができ、奈良県の天然記念物に指定されている。白い地層は流紋岩質の凝灰岩や礫であるが、今回は凝灰岩層に残る火山豆石や、雌岳から堆積層上に飛来した火山弾(流紋岩)の衝突痕などを観察しながら、山あり谷ありの露頭を南から北に向かい防空壕まで歩いた。踏み外せば谷に落ちそうな個所もあり怖くなるが、シニアの講座で佐藤先生と同じ道を歩いた昔が懐かしく思い出される。あれから何年経ったのか、足腰の衰えは如何ともし難い。足元に散らばっている小石や礫は殆どが灰色や黒色(ガラス質)の流紋岩であるが、安山岩も僅かながら混じっていた。

 防空壕は太平洋戦争末期に当時の陸軍が最後の抵抗の拠点としてドンズルボーの一部を網目状に掘削(総延長2㎞)したもので、予定した航空指令部などの施設は未完に終わり、洞窟だけが戦争遺跡として残っている。内部は真っ暗闇である。懐中電灯の助けとネットで得た洞窟内の地図を頼りに火砕流や火山灰の堆積層配列や、安山岩や流紋岩の大きな岩片の混在などを確認した。ドンズルボーの地層についての学術報告は数多くあるが、洞窟内の堆積構造についての報告は未だなく、手つかずの状態であるので、詳細な観察とこれまでの知見との関連付けができれば価値ある研究になるそうである。入口付近では小さな昆虫類もみられた。暗闇の天井のそこかしこに宙吊りで眠っている蝙蝠が目を覚まし飛び交うさまに驚かされ、探検気分は十分に味わった。帰りは往路で体験した凝灰岩の岩山の“恐怖の彷徨”を避け、グーグルナビでも行ける西側の比較的平坦な山道を歩いて出発点に無事に戻った。(I.S)

ドンズルボー

防空壕

石ころ部会6月活動報告

石ころ部会6月活動報告

月 日:6月25日

場 所:滝畑 千石谷・大滝

参加者:14人

活動内容:

梅雨空の下、地質学の佐藤先生に同行をお願いし滝畑の地形・地質を観察しながらハイキングを楽しんだ。岩湧山の麓から和泉山脈にかけての山々は和泉層群の岩石で覆われている。大昔、この辺りは東西に細長く伸びた海であったそうだ。海底に堆積した泥や砂や礫が悠久の時間をかけて固まって泥岩や砂岩、礫岩となり、その後の地殻変動で地層が隆起して山となり、さらに風化・浸食を受けて現在の地形になっているとのこと。

 今回は滝畑の岩湧山登山口から千石谷ルートを大滝まで歩いたが、山側に泥岩、砂岩、礫岩の露頭が多くあり、明瞭な互層構造が観察された。地層が大きく南側に傾いており、隆起時の地殻変動の激しさが伺える。佐藤先生によれば礫岩は別名、さざれ石であり人工物のコンクリートと見間違いやすいが、非常に強固であり、強固なるが故に滝の河床は礫岩であることが多いとのこと。程なく大滝にたどり着き、落差15mの雄姿に圧倒される。滝壺には近づけなかったが、近くには巨大なさざれ石がいくつか見られ、苔むしたその姿は実に美しく悠久の時を感じる。「君が代はさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(古今和歌集より)。(現代語訳: 君が代は千年も8千年も永遠といえる時間、小さな石が大きな岩となって、その岩に苔が生えるまで長く長く続きますように)感慨深い面持ちで帰路を急いだ。バスに乗ると突然の大雨。濡れないですみ、ラッキー。滝畑まで自宅から自転車で来られた佐藤先生は辛抱強く雨宿りをし、濡れることなく無事帰宅されたそうである。

石ころ部会3月活動報告

月 日:3月26日

場 所:岸和田(自然資料館、岸和田城など)

参加者:20人

活動内容:

のどかな春の一日、午前はきしわだ自然資料館にて館内展示物の鑑賞・観察を行った。ここには見た者の目を惹く動物の剥製やナウマンゾウの骨格標本などの他に、岸和田の自然、地層、化石など、自然史関連の様々な展示がある。今回は地味な内容となるが、石ころ部会として地質学の専門家である濱塚アドバイザーより泉州地域の地層、岩石などについて学ぶ機会を得た。

 岸和田の海岸から和泉葛城山にかけて(1)大阪層群、(2)領家体花崗岩類、(3)泉南流紋岩類、(4)和泉層群の露頭(地質断面図など:写真参照)が見られるが、年代的には300万年前に形成された大阪層群が一番新しい。これらの地層が幾度も地殻変動を経て、また海面の上昇・下降に伴い、時に海底に、時に陸となりながら複雑な地層を現在に残している。 このため泉州地域では日本列島誕生の土台形成となる様々な石(火成岩、堆積岩、変成岩)が観察され、地質学的価値は府内随一だそうである。因みに日本の国石である糸魚川の翡翠に対し、各都道府県指定の石や鉱石もあり、大阪の府石は和泉石(和泉青石)と呼ばれる和泉層群の砂岩であるだそうである。大阪の鉱物は、これもアンモナイトと伴に和泉層群で見られるドーソン石だそうである(写真参照)。

 午後は陽光の下、七分咲きの桜を愛でながら、昔ながらの風情を残すかじやまち商店街や明智光秀の肖像画で名高い本徳寺周辺を散策し、丘陵や段丘で高低差のある街並みを確かめながら段丘最上部に築かれた岸和田城(千亀利城)まで歩いた。石垣や本丸は主に和泉石や花崗岩が使われており、石庭は多くの泉州青石(緑色片岩:変成岩)を各所の配置し、周囲を敷き詰めた白川砂(花崗岩が風化したもの)で構成されている。午後3時に散会したが石尽くしの一日であった。(I.S)

(1) 大阪の石

(2) 岸和田 地層図

 

石ころ部会の11月活動報告

月 日 : 11月27日(金)

行 先 : 石川 玉手橋下 河原(近鉄道明寺駅下車)

       石川 河原(河内長野駅付近) 

参加者 : 17名

 9月、10月は雨天中止で涙を飲んだが、今回は幸運にもポカポカの観察日和。 本年最初で最後の部会となることから、石ころについて多くを学ぶべく、地質学の佐藤隆春先生にボランティアとして同行をお願いした。場所は昨年5月と同様、道明寺駅近くの石川の河原。 先ずは思い思いの石ころを各自が採取し、岩石鑑定検索表や石ころ標本を参考にして皆で鑑定を試みた。 安山岩、サヌカイト、流紋岩、花崗岩、閃緑岩、凝灰岩、砂岩、泥岩、礫岩、石英、チャート、と11種類に何とか分類してみたものの、これが正しいのか間違っているのか全く自信がない。そこで佐藤先生の出番となるが、鑑定結果の正否や、それぞれの石の特徴を教えて頂いた。 正解率は7割程度で上出来というべきか。 他に、河原の石ころ分布についてより地質学的な観察方法も教えて頂いた。素人の石ころ鑑定は結論が出ないまま空しく終わってしまうのが常であるが、今日は何か満足感がある。

 昼からは場所を河内長野駅近くの石川に移動し、河床に露出する花崗岩と閃緑岩を観察した。 その過程で花崗岩や閃緑岩とは明らかに異質な暗緑色の岩片(5㎝大)の混入が数か所で観察された。 佐藤先生によれば玄武岩のようであるが、もし顕微鏡でそれが確認されれば地質学的には非常に珍しく、意義のある発見であるとのこと。先生の検討結果を待って、石ころ部会から大阪市立自然史博物館に内容を報告することになった。

以上、今回は地質学の雰囲気の漂う活動となった。(I.S)

石ころ部会11月活動報告

1. 日 時   :11月29日(金)

2. 場 所   :二上山・岩屋(地層観察)

3. 参加人数  :13名

4. 活動内容  :二上山は約1500万年前に噴出した火山岩類でできており、様々な種類の火山岩や凝灰岩がみられる。今回は佐藤隆春先生に案内と解説をお願いして、当麻寺駅を出発、当麻寺、祐泉寺、岩屋峠周辺のルートを往復した。今年一番の寒さながらも快晴に恵まれ、紅葉で彩られた二上山の地質観察を十分に楽しむことが出来た。

当麻寺では日本最古(白鳳期)の石灯篭を観察、二上山の凝灰岩から作られたもので、石材の加工技術が発達していなかった時代には二上山の柔らかい凝灰岩が重宝されたようだ。法隆寺金堂の土台もその一例とのこと。

祐泉寺周辺では丸みをおびた軽石が入った凝灰岩の層を観察、火山灰が岩石になったもので比較的柔らかく、白っぽい。(約1ミリのザクロ石や黒雲母も入っているようだ)

先に進むと溶結凝灰岩の層がみられた。火砕流によってたまった火山灰がそれ自身の高熱により溶解してガラス質になり固まったもので、溶結の度合いが進むほど黒っぽくなるようだ。

岩屋峠から岩屋に降りると凝灰岩や溶結凝灰岩の層に深く入り込んだ凝灰角れき岩の層がみられた。溶結凝灰岩が再度の爆発により粉々になって固まったものだそうだ。岩屋峠から雌岳のふもとに進むと青灰色の安山岩(ザクロ石黒雲母安山岩)がみられた。噴出した溶岩が凝灰岩層の上に堆積したもので、その境界線をみることもできた。

これら4種類の岩石の層はそれぞれが別々に起きた火山爆発によりできたもので、このような地形は珍しく、二上山に特異的なもののようだ。今回、雄岳は登らなかったが、雄岳では更に別の火山岩がみられるという。今は火山ではないものの1500年前この地に起きた度重なる火山爆発が目に浮かぶようだ。専門家の説明がなければ単なるハイキングで終わってしまうであろう二上山登山も佐藤先生のお蔭で大変貴重なものになった。岩石や地形の細かな観察を通して何故そのような地形になったのか原因を推定・検証していく地質学者の地道な研究努力の一端を垣間見る思いがした。

反省会は河内長野の大喜多で、出席者は9人。